昭和51年08月23 日朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へいってやる。」
金光様を唱える所に、金光大神御取り次ぎの働きが受けられるということです。何処へおっても何処からでも、時間又は空間というものを超越した働き、どこまでも金光大神の御神徳でありますが、おかげを取り次いで下さる働き、おかげは天地金乃神様が下さる。取り次ぎの働きをして下さる訳ですね。そこで金光大神は天地の親神様の願いを受けられて、いわゆる世の中の難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれという、願いに応えられての御信心。だから金光様の御信心は何処までも。
神様の願いに応えさせて頂けれる、又は応えさせて頂こうという、高度な信心に進ませて頂かなければ、いや頂けばおかげが受けられるということが分かります。これはおかげというのは本当の人間の幸せ、いうならば神も立ち行き氏子も立ち行く。神様も助かって下さる氏子も助かる。神様も喜んで下さる。私共も喜べるというおかげです。いわゆる金光大神様の生きられ方を私共が学ばせて頂く、まぁその事がしきりに教団ではいわれ、金光大神のいわゆる御伝記ですね。金光大神又は金光大神覚えと言った様な事が。
大変大切なものとして頂かれる、それは金光大神の生きられ方が分かるし、またそれに神習はせて頂かんならんからであります。その生きられ方の一番最高のなら生きられ方というのは、何処までも死んだと思うて欲を放し、天地金乃神を助けて呉れと仰せられる、その願いに応えられた事なんです。だから金光大神の生きられ方をね、最高に受けとめると言う事は、だから私共がね命を掛けて金光大神の道を体得し、金光大神の助かられた助かりの道を人に伝えて行くという働きが、一番最高だと言う事に成ります。
折角金光大神が形がのうなったら、来てくれと言う所に行ってやると、仰せられる程しの事ですから来て頂いたならばね、いやお取り次ぎを願うならば、そう言う神様が喜んで下さる様な、願いが出来れる信心に進まなければいけない。只々自分の苦しい事悩ましい事ね自分の私的な、例えば願いというものに終始しては詰まらんと言う事です。勿論そう言う所から信心は興されて来るのですけれども、そういうおかげを頂く事の為に神様が直ぐ下さるおかげでも、時間をかけて下さると言った様な場合がございます。
だからその時間を掛けて、どうしておかげが受けられんのだろうかと、言う様な時がありますけれども、そのどうしてと言う時に、いよいよ神様の心を分からせて貰い、神愛を悟らせて貰うて、おかげを本当のおかげにして行く精進がいるのです。いよいよ一年後に合楽に参りまして、教会としてお取り立てを頂いて十年になる。その為のいろんな神様の働きもさる事ながら、信者一般の皆さんの場合もそれを祈りに祈り、願いに願っておられ。そしてそれを具体的にどう形に表すかと言う事を。
それぞれのお役の方達は一生懸命になって居られます。この記念祭の記念事業の委員長に、久富正義先生がおかげを頂いとりますから、まぁ日々その事をお取り次を頂いて願われとるのと同時に、まぁその第一としてこの周辺の土地の買収と言う事が願われとります。考え様によればそげん広う買はんでんよかろうごとあるけれども、そう言う働きが起き来とるということは、やはり神様が大きなおかげを下さろうとして居るのだから、そりゃあんたちっと広過ぎはせんのと言う必要もなさそうです。
もう問題は神様が下さるものならば、頂かして頂こうと言う姿勢をまぁ持って居る訳。まぁそれは教会長として、私がそういう思いを持って居るわけです。段々と一軒一軒具体的話が進んで居るが、昨日は秋永先生と正義先生が、もう昨日は終日一日掛で、もう幾組ですかこの周辺の全部の田圃の持ち主、五、六人位おられますでしょう。それを一軒一軒廻って夕べは遅うなりました。最後は帰って見えた時、まぁ本当に只事ではないなぁ、本当に神様のお役に立たせて頂くということは。
只口でだけ祈りだけでは出来んと、私は実際にねその活動が伴わなければ駄目だと、まぁ昨日は思はせて頂いたんだけども、まぁ何処も大変良く話を聞いて下さり、まぁ出来る出来んは別としてです、まぁおかげを頂いた中には、又大変難しい所もございますけれども、その難しい事を一つ一ついうならば、神様のおかげでそのう切り開いて行こう、おかげを頂いて行こうと言うのですから。そりゃ神様の事じゃからあっと言う間に、それこそシャープなおかげがと私共は夢見るですけれど、決してそんな事ではない。
昨夜先生方が帰って来たのはもう何時だったでしょうかね、八時頃まで遅う掛かっている訳です。それが一軒一軒それで今の様な話を聞かせて頂いて、まぁ帰りにすぐ帰られましたから送り出してから、後御祈念さして貰い依りましたら、御心眼に頂くのがこうラムネはね、グーッと入るとねむせる訳です。だから玉が引っかかるでしょう。途中で引っかかるから、ガブガブ入らんでむせんで済む訳です。
ははぁそこに引っ掛かり、ここに引っ掛りも必ずあるなと言う事、そりゃもう何年前からですからね、この話しが出ておるのは。もうこの隣の事は久保山先生ご在世の頃からでしたから、わざわざ東京までもその為に先生は行かれたんですから、その話が今まだ続いて居る訳ですから、ですからもう本当にまぁ十何年掛かりでの事ですけれども、神様はおかげになると仰せらるから、もうそれこそうまずたゆまず断られては行き、もう出来そうになってはまた断られと、言った様な具合を繰り返しおる訳ですけど。
けれどまぁこの十年祭に、それが成就するかしないか分からないけれども、どうでもやはり第一もう教職舎、ここの修行する人達のもう住まいがもう一杯であります。もうあのう新館、新二階まで使っている状態です。ですからどうでもおかげ頂かんならん。と同時に皆さんが祈りに祈っておられる所の、奥津城の御造営という事がございます。それで敷地が先ず先にと言う事になる訳ですが。私は本当に昨日も田主丸の共励会を終えて、文男先生がもう十二時頃だったでしょうか、帰って参りましてから私の所に来て。
いわゆる奉仕をして何時もくれる訳ですけれども、まぁ二人で話した事ですけれども、本当にあのう神様に喜んで頂く御用ということがね、どんなに大事な事かと言う事を、またどうしておかげを頂くかということを話した事でした。昨日十時過ぎだったでしょうか、大東亜戦争の最後の頃に、特攻隊がどんどん出てゆく、いわゆる実写ですたいね。それをあのうその当時の生き残りの方達が、説明をして居られるのがテレビで出ておりました。最後見せて頂きましたのなんか十何人の特攻隊が。
まぁだちょうど此処でいうなら泰郎君どん位です、あの中島さんのところの十五、六歳位まだ此処で修行しとります桜井君位です。まだ十五、六歳位ですかね。そういうのが十何人揃ってもうそれがいよいよ死にげに行くとですからね。それを誘導していく人と、それからそれに誘導されて行く人が、それがあのう手を振ってバイバイしながらね、ニコニコ笑いながらあのう死にげに行く状態ですよ、いわゆるね見せて頂きながら、何かしらんけれども戦争という事の本当に、又とこんな戦争を起こしちゃならないと言う事と。
そう言う純心無稚な心でお国の為に死んで行く、散って行くと言う人達の霊の事をしきり私は思うて、それから直ぐ紋付き袴を付けてから此処へ出てきました。そしてその事を一番に神様に、その御霊達のその霊の安らかにおかげを頂かれる事を、願わせて頂いとりましたらね、その私がテレビで見せて頂いた、その特攻隊のまぁほんなまだ子供ですねいうなら、達の姿が此処では竹内君とかね、それから伊藤君とかあのう頭を丸めて、末永先生といる人達の姿に頂いたんです。
私はその時に此処の御祈念が終わって、直ぐその事を家内にも話し、又文男先生にもその事を聞いて頂いたんですけども、本当に家でこうして修行さして頂いて居る、然もまだそれこそ春秋に富む若い身空で、それこそ学院に行って誓いをさせて頂いて、生涯をお道の為にいうなら天地の親神様のお心に添い奉る、金光大神お取り次ぎの働きの手にも足にも成らせて頂こうと、発心するだけでも命掛けです。言うならばこれは教団の特攻隊です。もう家内に修行生と言った様な軽々しい扱いをしちゃならんぞ。
本当に尊い事だから、本当に大事に頂かねばいけないぞと、言って家内と話しました。いわゆる神様のね、お喜び頂けらる御用をさせて頂くと言う事は、私が昨日家内と二人で話したように粗末な扱いどんにしちゃならんぞ、と言う働きがあるということです。もうこればっかりは何十年信心したちゃ、ほんな我がこつばかり、そりゃ成る程おかげは下さる一生懸命、けれどもね神様があの氏子だけは粗末にだん扱うちゃならんぞと、言われる様な信心を頂き折角信心をさせて貰うならば。
いや金光大神に来て頂いて、金光大神のお取次の働きを受けるならばです、そう言う高度な願いが出来れる信心に、進まなければ馬鹿らしいということです。昨日研修の時にもお話した事でしたけれども、本当にあの昨日もある書物を読ませて頂いてましたら、或有名な先生のお話を聞かせて頂いた時、とにかく金光様の信心をさせて頂く者は、神の心を心としての信心でなからねば成らないと、いうことに結んであるんです。そんなら神の心を心とすると言う事はどういうことなのかとね。
生かされて生きて有りその理を知らずして、迷い苦しむ人々の難儀を救い給はんと、と生かされて生きてあるという道理、天地の神様のあまねく満る、御恵みを測り知られぬみ力に、天地の間のもの皆はと、そういうことが分かるということが、神様の心が分かるという事では無いいうことです。今教団で神の心を心としてと言うのは、もうその程度にしか説き明かしてないと言う事です。この神様というね氏子の幸せを願われての事ですけれども。この神様の働きというものは限りのない働きなのだ。
然もこの神様のおかげを頂かなければ生きていけない、いわゆるいうなら生かされて生きてあるのだ。その道理を分からせるそれが分かった、と言う事が神の心が分かったと言う事じゃないと言う事です。それは説明すればはぁ本当に成程生きとると思いよったばってん、生かされて生きとるたいと言う事が分かる。神様の御恩恵と言う事を聴けば、本当にあれもお恵みこれもお恵みと言う事は分かるけれども。なら果たして分かっただけで、その難儀から救い助けて頂く事が出来るかと言うと、そうじゃないと言う事です。
ただお取り次ぎを頂いてお願いをする、様々な人間氏子のいうならば、貧争病の悩みと言った様な事から、お取り次ぎを頂いておかげを頂くというおかげはでです、そういうおかげも頂かねばならんけれども、それではいや本当の金光大神の道を貫くと言う事にも、天地の親神様のお心に応える事でもないということです。何んと言うても神様の願いに応えるということは、いよいよ私共がおかげを頂いて。
貧争病から脱皮して、そして信心の真をいよいよ現わして、そこにはどういう事になるかというと「あの氏子はもう粗末に扱はれんぞ」と言われる様な信心、貧争病から脱皮してね、いうなら難儀から解放されるおかげを頂いて、そのおかげを持って信心の真を現わして行くと言う事、いうならばお役に立ちたい立ちたいという一念なんだ、そこから神様がもうあの氏子は粗末にどん扱はれんぞという、働きそのおかげが生まれてくる、その働きそのおかげを私は真善美のおかげだと思います。
その真善美のおかげをです、いうならば引き掲げての和賀心時代を世界に広げて行こうと言う、いよいよ光の輪を広げて行こうというのはです、私は真善美に輝く光だと思うです。それを拡げて行く事だと思うです。いま此処に祈願詞を例に引いて生かされて生きてある、その道理を知らずして難儀しとる訳ですけれども、そのならことわりを知っただけではいけません。
その道理に合う信心をせねばいけません。そのいうならば神の心を心として、いよいよおかげを頂いて行く事の為に。昨日から申しますようにですいうならばね、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと言う、その天地書附を基軸にですけども、只それを唱え言葉の様に唱えておるだけではならない。その和賀心を頂く事のために、先ずその向こうに天地日月の心に成る事肝要だという。いよいよ神の心天の心を心として、地の心を心として、日月の心を心として。
自分の生き方にそれを頂いて行くということが。そのまま神の願いを成就していく事の為の要素に成るのであり。神様の心を心とした事になるのです。そこでそれなら天地日月の心、そういう心であらねば成らない事のために、私共が絶えずいつでも心行に励んでおらねば出来ない。いうなら天地書附を基軸とする。もう一丁向こうに天地日月の心になる、そういう基軸これの方が基軸に成って、初めて和賀心が頂けるんだと、ならその天地日月の心に成らせて頂く事の為には。
絶えず自分の心の中に心行を持って、繰り替えさして頂いておるその心で、初めて天の心にも地の心にも、日月の心にも成るんだという。心行がそんなに尊い大事な事だと言う事が分かります。金光大神は形が無うなったら来てくれという所に行ってやる。何処からでも願えばおかげを下さる。何処からでもお取次をして下さるが、そのお取次を願うその内容が、段々私ごとの願いから、その私ごとの願いであってもですよ。
例えばそこに引っ掛かりここに引っ掛かり、して行くという事も御神意だということを、ちょうどラムネを飲む様なもんだと、いうことを分からせて貰うて、いよいよ信心を深めて行く内にです。これは自分だけの願い言うならば、いよいよ人が助かる事の為の御用にとも、立たせて貰わねばならんという信心が生まれてくる。そしてそれを命を懸けてなら、金光大神の道を広めようとか、合楽示現活動に参画しようという心に、成ってくる頃にはです。
もう神様が粗末にとも扱うてはならんぞと、いう働きが生まれて来るのです。成る程本当の献身的な御用と言うことが、如何に有り難いかと言う事が分かるですね。皆さん。だから折角金光大神の取次を願うならば、段々そう言う高度ないうならば、神様が喜んで下さる、いや神様が助かって下さる、おかげの頂けれるような願いが、しかも命を懸けて願えれる様に、段々信心が進んで行かねばならんという事でございます。
どうぞ。